2014年10月30日木曜日

例えを使ったレトリックと物事の多面性

議論等において、以下のような発言がしばしば見られる。
AはBのようである。(したがってCである。)
この時、BはAを例えたもので、Cが結論である。

AはBのようであるという例えが成立するためには、Aのある要素がBのある要素と一致していれば良い。

「ワールドカップは戦争である」という例えは、ワールドカップが各国家を代表した者の争いであり、また各国民がその勝敗に自国の威信をかけているという部分を例えたものである。
何かの要素が一致していればいいので、ありとあらゆるものに例えることが可能だ。例えば次のように例えることもできる。
「ワールドカップはアリ塚だ(のようである)」
これは大量の人がひしめき合う様子をアリ塚の中のアリに例えたものだ。

そして、例えられたものから結論が導かれる。
上記の例の場合だと、戦争はやってはいけない、または、アリ塚は赤茶色いなどとすることができる。
そしてこれらをつなげるとこうなる。

ワールドカップは戦争だ。だからやってはいけない。
ワールトカップはアリ塚だ。だから赤茶色い。

例というのは、理解を助けるためにあるものなので、それがなくても筋が通らなければいけない。
したがって、

ワールドカップはやってはいけない。
ワールドカップは赤茶色い。
とすることが出来なければいけない。

なぜこのように成るのかというと、例えられた要素とは別の部分についての結論をつなげているからだ。
ワールドカップの色についてアリ塚が例えられたわけではないし、戦争をしてはいけないのは国家間の争いだからではない。

ワールドカップはまるでアリ塚のように人がひしめき合っている。
とすればこれは正しい。


実際の発言においては、例えの部分に一般に悪だと思われているものを入れて、何かを否定するために用いられることが多い。
しかし、悪だと思われているものも、全体としては悪と評価できるかもしれないが、そのすべての要素が悪なのではない。
例えられているもののどの部分が一致しているのかをみきわめなければならない。

実際によく用いられるのが、「戦争」だったり「ナチス」だったりする。ネット上だと在日朝鮮人だったりする。

戦争と言うのは、とても多くの要素を含んでいるので、あらゆるものを戦争に例えることができる。
在日朝鮮人と言うのはネット右翼からまるで絶対悪のような扱いを受けていて、かつありとあらゆる要素を含むものであるので在日朝鮮人=悪という図式が成り立っている人たちの中では非常に使い勝手がいいのだろう。
海外だとナチスを良く見るような気がする。
ナチスも〇〇をしていたんだ。まるでナチスじゃないか。といった具合に。

誰かがたとえ話を持ちだした時にはそのイメージに惑わされないように注意した方がいい。

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